世界はそれを逃避と呼ぶんだぜ
若者の課金離れ
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この動画に感動して、
三次創作をしました。




 ――この世には不思議なことなど何もない。
 とは、秋月律子の好きな小説の台詞だ。

 律子が偶像町に越してきた理由の最たるものは、広くて住み心地のよさそうな物件が格安で手に入ったからである。彼女の貯金でぽんと買えてしまう程度の、手頃な価格だった。
 築二十年の木造家屋。古めではあるが、あまり汚れておらず、何より夏場でも涼しいのが気に入った。しん、と森の奥のような深い静寂が、常に律子を出迎えてくれる。
 だが、格安であるからには相応の理由があるもので。
 ご多分に漏れず、“いわくつき”物件だったようだ。

 秋月律子が目を覚ましたのは、外から聞こえる蝉の鳴き声によるものだった。
 律子は枕元においた眼鏡をかけながら、体を起こす。寝室の襖を開けると、鋭い夏の日差しと、戦争のような蝉の狂乱。
 今日も暑い、夏の一日だ。
 夏はあまり好きではない。この家は涼しいから何とか耐えられているが、運動不足の体には、ぎらつく太陽は殺人的だ。
 律子はうんざりしながら溜息をつく。と――机の上に、何かが置かれていることに気づく。
 白と黒の、三角形の物体。握り飯である。
「…………」
 律子が用意したものではない。そも、夏場に一晩握り飯をそのまま放置しておくことなどできない。
 近づいて触れてみると、夏の気温とは違う、ほのかな温もりが残っている。つまり、これはつい先ほど作られたものだ。
 律子は苦笑する。
“いわくつき”物件の、“いわく”がこれである。
 外から犬や猫が持ってきてくれたものかというと、それも違う。襖も障子も閉め切っていたからだ。当然、玄関の扉も。それに、犬猫に恩返しをしてもらえるようなことをした覚えもない。
 この握り飯は、この家の中の誰かが作ったのだ。
 律子は寝室を出、台所まで行くと、白米がきっかり一合分減っていた。
 彼女に夢遊病の気がなければ――やはり、意志を持った“誰か”によって行われたものなのだろう。
 前の住人は、この“いわく”の気味悪さに家を手放したようだが――
 手に持っていた握り飯を、かじってみる。ふんわりと炊かれた白米と、ちょうど良い塩味。海苔の巻き方も手慣れていて、持ち手が汚れないようになっている。中身は何もないが、丹誠込めて握られたことがよく分かる、そんな出来だった。
 有体に言えば、美味だった。
「ありがと、“いわく”さん」
“いわく”が一体何なのか分からないが……決して害のあるものではないことが、律子には分かった。
 特に困ることもなく、気まぐれにご飯まで用意してくれる。だからまぁ、別にこのままでもいいかと思っている。
 どういたしましてという返答のつもりなのか、鍋の蓋がカタカタと音を立てた。

* * *

 この家に来てから、少しだけ肩が重く感じるようになった。
 日頃の仕事のせいだろうとは思う。しかし、多少辛かろうとも、机に向かわないわけにはいかない。
 茶を用意し、風通しのいい書斎に向かう。書き物用の机の前に腰を下ろすと、傍らに山と積まれた原稿用紙を一枚置いた。
 外では相変わらず蝉がうるさいが、音楽だと思えばいいだろう。
 ペンを手に持ち、律子は白紙の原稿用紙に立ち向かっていった。
 一文字目、紙の右上に“私”……と書いたまま、彼女の手が止まる。そのまま10分、石像になったかのように微動だにしない。
“私は街を歩いていた”……そう書いてから、律子は激しく頭をかく。しばしペンを指で弄んだ後、原稿用紙を丸め、破いて後ろへ放り投げた。
 そんなことを、何度も繰り返した。一文書いては紙を丸め、投げ捨てる。一番長く続いたので原稿用紙十行分だったが、その紙も結局破いて捨てた。
 一時間経ち、二時間経つが、白紙の原稿用紙が彼女の文字で埋まることはなかった。
 律子は深く溜息をついて、すっかり冷めてしまった茶をすする。
 汗ばむ首筋を疎ましく思いながら、眼鏡の位置を直す。
「……スランプ」
 スランプ。言葉にするのは簡単だった。
 律子はこの言葉が嫌いだった。書けない理由を、己の実力ではない、別のものになすりつけている感じがするからだ。
 この世には不思議なことなど何もない。
 書けないのは自分の責任だ。どこまでいっても、それは変わることがない。
 だが、書けない。この一週間、何も書けない。
 もう、締め切りが差し迫っているというのに。
 頭の中に浮かぶ文章は、どれも精彩を欠き、原稿用紙に書いても、泡のように溶けていってしまう。“生きた”文章にならない。
 別に、律子の身の回りに不幸があったとか、体調不良とか、そういう理由ではなく。ただ、己の心理状態によるものだ。
 律子はそれを自覚していた。自覚しているがゆえに、余計ややこしかった。
「……今は、もうダメね」
 律子は嘆くように呟いた。
 机の横に置いた、ねじ巻き式の腕時計に目をやると、ちょうど待ち合わせの時間30分前だった。
 待ち合わせは家から近い場所だが、早めに出ておいて損はないだろう。
 律子は立ち上がった。

* * *

 家を出ると、道には陽炎が立っていた。律子は唇を歪め、お気に入りの帽子を深く被り直す。
 頂点に上った太陽は、総てを枯れ尽くさんばかりに照っている。光というよりも、溶岩の雨が降ってきているようだ。
 律子はハンカチーフで汗ばむ首元を拭きながら、歩き出した。
 できるだけ日差しは避けて、建物の陰の中を歩く。偶像町は暑い町だが、湿度が低いので日陰は涼しい。
 心地よい清風に目を細めながら歩いていると、視界に見知った姿が映った。
「……あずささん?」
「あら、律子さん。どうもこんにちは」
 日傘をくるくる回しながら、長髪の女性が振り返った。三浦あずさという名の彼女は、落ち着いた雰囲気の美人である。
「今日も暑いですね~」
 と言いつつも、彼女の肌には汗一つない。どころか、周りの温度が下がった気さえする。
 あずさの持つ空気はどこか謎めいている。手を伸ばしてみたら触れられないのではないか、そんなことまで考えてしまう。もちろん彼女は確かにそこにいるし、律子に親しげに話しかけてくれるのだけれど。
 いつかその正体を暴いてやろうと律子は目論んでいる。
「珍しいことが続きますね。また日中に会うなんて」
「えぇ……。うちの子たちが、今日も喧嘩しちゃってて……。罰としてお散歩に行くことにしたんです」
 うちの子たちとは、彼女と同居している貴音と千早のことだろう。
“罰としてお散歩”とは変な言い草だが、彼女の場合はその言い方が実に正しい。
 ある種の異能なのではないかと思うほど、三浦あずさは道に迷う。一歩外に出た瞬間、自宅に帰れなくなるほどだ。
 ゆえに、三浦あずさが大切でたまらない貴音と千早の二人は、仲直りして探さざるを得ない。
 なかなかによくできた制裁システムなのだ。
「本当に、どうしてもっと仲良くできないのかしら」
「何か、心当たりはないんですか?」
 うーん、と頬に手を当てて考えるあずさ。
「そういえば、今日は貴音ちゃんのほうから噛みついてたわね……。何でも、私と千早ちゃんが二人で蛍を見に行ったことを言ってたみたいだけど……」
「間違いなく、原因はそれですよ……」
 え、えぇ~? と首を傾げるあずさ。
「で、でも、千早ちゃんのお散歩の寄り道に、見に行っただけだったのに……。確かにとても綺麗だったけど、見たかったならちゃんと言ってくれれば……」
「……そういうことじゃ、ないと思います」
 朴念仁というか、何というか。“あずさと二人で見た”ことに噛みついているだけであって、蛍云々が見たかったわけではないだろう。
 多分あずさは、彼女の想像以上に、貴音と千早に大切に想われていることに気づいていないらしい。
「でも、蛍は本当によかったわぁ~。森に入れば何匹かは見られるから、律子さんもいかが?」
「そうですね、考えておきます」
 律子は帽子を傾けて返答した。
「っと、私は用があるのでこれで」
 話し込んでいたら時間が経ってしまった。
「あらあら~、また取材なんですか~。頑張ってくださいね~」
「はい、ありがとうございます。では、失礼しますね」
 足の向きを変えて、律子は曲がり角を曲がった。
 それから数歩歩いて、違和感に気づく。
「……私、あずささんに取材があるなんて言ったっけ?」

* * *

「――では。改めまして、今回取材を受けてくださってありがとうございます」
 喫茶店の中は涼しかった。
 机を挟んで、対面に記者の男性が座っている。ノートを広げ、ペンを手に持っている。
 律子の目の前に置かれた、冷茶の氷がカランと揺れた。
「今回舞台化されることになった“つま先立ちの口づけ”ですが、これはどのようなものから発想を得て書かれたのでしょうか」
 記者の質問に、律子は浪々と答えた。答えるたびに、矢継ぎ早に彼は質問を重ねてくる。
 珍しい記者だった。普通には聞きづらいだろう質問も、言葉を濁さずに尋ねてくる。おそらく、初対面ですぐ好き嫌いが分かれるであろう人柄だ。
「……今までで五冊も刊行されている“つま先立ち”シリーズは、賛否両論の激しい作品です。それについて何か思われることはございますか」
 30分ほど話し込んだ後、彼はそう聞いてきた。
「賛否両論、と言いますと?」
 聞き返すと、薄く笑みを浮かべて記者は答えた。
「“身分違いの男女二人の恋物語が主なモチーフであるこのシリーズがだ、二人の恋は一筋縄ではいかず、人や周りの環境に邪魔され、次から次へと窮地に追い込まれていく。その怒濤の展開が本作の魅力ではあるが、中を開けてみれば薄っぺらだ。行き当たりばったりの構成にしか思えない”――と」
 記者はそう言って、鞄から雑誌を取り出した。付箋のついたページを開いて、律子に見せる。彼が先ほど言ったのと同じ文章が書かれていた。
 ……その雑誌は、記者の所属している会社から発行されている雑誌だった。
 なるほど、と律子は心のどこかで納得した。つまり、これは律子を批判する記事を書くための取材。
 彼の持つ雑誌は、取材源がどこぞともしれない、三文記事の多いものだと今更思い出した。
 文章があまりに書けず、半ば自棄で、よく調べもせずに取材を引き受けてしまったのが失敗だった。
 しかし、気分を害して席を立つ訳にもいかない。律子は努めて冷静に答えた。
「そうなのですか。それはその人にとってはそうなのでしょうね。残念な話です」
 そう返すと、記者は笑みを顔に貼り付けたまま、言った。
「また、こんな批評もあります。“作者は、本当に結末を考えているのだろうか”、と」
 彼の言葉が、思った以上に律子の胸をえぐった。
 彼は、律子が長く書けない状態にあるのを見越している。それが原因で、完結編である第六巻の発売が長引いていることも。
 総て知った上での、取材。
 律子が答えられず、長いこと黙っていると、記者はフンと鼻を鳴らした。
「まぁ、まだお若いようですし、そうであっても仕方ないとは思いますよ――」
 言葉の内容はまだよかったが、口調にはあからさまな侮蔑が含まれていた。
 何か言い返そうと思ったが、やめた。そんなことで反論しても余計悪く書かれるだけだ。
 それに、
 ――言われたことは真実なのだから。
 記者は優越の笑みを浮かべながら、冷茶の入った茶碗を持ち上げた。
 持ち上げて、
「うわっ!?」
 彼が冷茶を思い切りこぼした。彼の着ていた服にまでかかり、白いシャツに染みを作った。
「なんなんだ、一体……」
 子供じみた失態に、羞恥のあまりか、彼は唇を震わせていた。苛立たしげに店員を呼ぶと、おしぼりを持ってこさせた。
 その光景を、律子は呆然と見ていた。
 彼が冷茶をこぼしたとき。明らかに、見えない手で押されたかのように茶碗が大きく傾いていた。
 まるで、そう。
 律子の代わりに、記者に仕返しをしてくれたかのように。

* * *

“つま先立ちの口づけ”シリーズは、かなりの売り上げを叩きだした、物書き秋月律子の代表作である。
 五巻でついに恋人同士である主人公二人が、決定的に離ればなれになった。
 絶望的な状況から、どう二人は再会するのか……はたまた、再会できないのか。
 それが、完結編である六巻の内容だ。
 ……まだ、一文字も書いていないのだが。
 本文はおろか、構成表さえできていないのだから、笑い話にしかならない。

 律子は帰路についていた。日が暮れつつあるので、暑さは少し和らぎ、若干楽になった。
 偶像町の夕暮れ時は美しい。遠目に見える山の木々は、夕日を受けて金色に輝いている。均等に降り注ぐ橙色は、風景の総てを染め上げ、目に眩しい。控えめに鳴くヒグラシの声が、耳に心地よい。
 しかし、律子の表情は暗かった。
 肩の重さはまだ続いている。だが、それ以上に気分が重い。
 怒濤の展開。その通りだ。行き当たりばったり。その通りだ。
 何故なら、結末を最初から定めていないのだから。
 無論のこと、総て見切り発車で書き始めたわけではない。全体の構想はある程度したし、市場に受け入れられやすそうな要素も詰め込んだ。
 だが、落としどころを決めずに始めてしまった。そこそこの売り上げに落ち着くだろうと軽く見て、二、三巻続けた後に着地点をゆっくり決めればいいだろうと考えて。
 そして、作品は大当たりした。
 丁寧に描いた身分違いの恋が、若年層の女性に受けたらしく、第一巻目は飛ぶように売れた。
 二巻、三巻と出しても勢いは止まることなく――五巻目まで刊行されてしまった。
 五巻目はいよいよ物語も盛り上がり、収束へ向けて進み出すところで終わった。
 そして、舞台化までされることになった。
 ……だが、結末は決めていない。
 巻数が進めば進むほど、物語は複雑化し、余計結末を定めにくくなった。
 出版社の担当には、思いつかないのならいっそのこと話を引き延ばしては、と言われている。主人公二人を、最後の最後でまた別れさせて。人気シリーズを終わらせたくないからか、担当はむしろそっちのほうを押してくる。
 だが、律子の物書きとしての良心は、それを否定する。そも、元の構想では四巻で終わる予定だったのだ。これ以上引き延ばしたら、この作品の良い部分を総て壊しかねないと、作家の勘が告げている。
 かといって、終わらせるにしてもどうすればいいのだろう。誰も傷つかず、万人が納得する、感動の結末を――
「…………」
 律子は首を振った。
 深く帽子を被り直して、家路を急いだ。
 肩が、先ほどより重くなっている気がした。

* * *

 家に帰り、茶を飲んで一服してから、律子は書斎の机に向かった。
 ――この世には不思議なことなど何もない。
 朝起きたら総てが解決していた、なんて奇跡は起こらない。世に誇れる行動をした人間は総て、朝を待たずに夜の間に行動した者なのだ。
 昼頃に執筆したのは、まず一行書いてみれば閃きがあるかと思っての行動だったが、やはり構成表を書かなければどうしようもない。
 まずは本文ではなく、原稿用紙に物語全体の構成を書く。
 コンセプトを決めて、物語全体のテーマを決めて、簡単に方向性を決める。それから、個々のシーンを具体的に煮詰めてゆく。
 机の前に四時間かじりついて、律子は何とか構成表を完成させた。丸めた原稿用紙は数十枚にも及んだが、ようやく及第点という出来の構成ができた。
 ……やはり、こういくしかないだろうか。
 気づけば、机の横に握り飯が三つ置かれていた。ご丁寧にたくあん付きである。物体の移動に気づかないほど、集中していたようだ。
 日はとっくに沈み、窓の外では夜の帳が降りている。どこからか鈴虫の鳴き声が聞こえ、涼風が部屋を通り抜けていった。
 律子はありがたく握り飯をかじる。奮発したのだろうか、中身には鮭が入っていた。どうもかなり空腹だったらしく、舌鼓を打ちながら瞬く間に三つの握り飯を平らげてしまった。
 食べ終わって茶をすすると、急激に睡魔が襲いかかってきた。気づかないうちに、精神がだいぶ疲労していたらしい。
 すぐに彼女の意識は沈んでいった。

 浅い眠りだったらしく、律子はしばらくしてぱちりと目を覚ました。腕に巻きっぱなしだったねじ巻き式の腕時計は、まだ午後の12時を差している。
 畳に直に寝て、さすがに冷えたらしい。律子は体を震わせながら起き上がった。
 そうして、目の前の机に置かれた、昨日格闘した原稿用紙に目を落として、
 それに、バツ印が書かれていた。原稿用紙の角から角まで伸びた、大きな大きな赤文字のバツである。
 当然、律子が書いたものではない。
「…………」
 原稿用紙の隅に、小さな文字も書かれていた。
“わかれるのは だめなの”。
 日本語と判別するのも難しい、ミミズの這ったような下手な字だったが、何とかそう読めた。
 律子は、×印の下に書かれた構成を見直す。……そこには、完結ではなく――第七巻に続くための展開が書かれていた。
 二人は結ばれる直前で、再び運命に分かたれる。そうして、七巻に続く。
 七巻だけではなく、おそらくはその先も。
 結局、六巻で完結させることは諦めていたのだ。
 なのに――
「……じゃあ、どうすればいいのよ」
 虚空に向けて律子は呟いた。相当おかしなことだと自覚していても、言葉は止まらなかった。
「どうすれば、うまく収まるのよ」
 八つ当たりだ。分かっている。そも、見通しの甘かった自分が悪いのだ。分かっている。
「……怖いのよ」
 律子は、自らの体を両腕で抱きしめた。何故か、涙が溢れそうだった。
「舞台化して、みんなの期待が集まって、満を持しての最終巻が――何をしてもダメになりそうで。うまく先が見えなくて、押しつぶされそうなのよ。分かる?
 この構成は、逃げなのかもしれない。だけど、変な形で冒険するよりは、通い慣れた道のほうがいいでしょう?」
 律子は顔を覆った。
「答えてよ。どうすれば、いいのよ」
 まったくどうかしている。存在するかも分からない“いわく”に向けて、内心を吐露してしまうなんて。
「……本当に、どうすれば、いいのよ」
 その呟きを最後に、長い沈黙が書斎に訪れた。
 そうして――
 ふわり、と。
 構成を書いた原稿用紙が、突然浮き上がった。
「……え?」
 風に巻き上げられたわけではない。見えない誰かに持ち上げられれば、そうなるだろう動きで、原稿用紙はふよふよと宙を漂う。
 紙はそのまま、書斎を出ていった。
「ちょ、ちょっと!」
 せっかく書いた構成表が持ち去られては困る。バツ印が大きく書いてあっても、まだ使えるものなのだ。
 律子は立ち上がり、慌てて原稿用紙を追いかけた。

 原稿用紙は家を出、外へと出た。律子は靴を履き、急いで追いかける。
「待ちなさいよ……!」
 聞いているのかいないのか。“いわく”は早歩きで原稿を持っていってしまう。
 鈴虫の大合唱の中、律子たちは奇妙な鬼ごっこを続けた。

 民家からも遠ざかり、やがて周囲が木々に囲まれる。森の道は整えられておらず、律子は何度か足をとられかけた。
 が、何故か“いわく”の速度が山道に入ってからあがっていった。まるで庭だと言わんばかりに、ひょいひょいと歩きにくい場所を踏破してゆく。
「待ってってば、もう……」
 運動不足の体に、ごつごつした地面は辛かった。ほとんど悲鳴のような声をあげて、律子は原稿用紙を追いかける。
 追いかけて。追いかけて。何度も転びそうになりながら、追いかけて。
 そのうち、何故自分はこんなことをしているのだろうと疑問に思って。
 よく分からない現象に翻弄されている自分が、どうしようもなく馬鹿馬鹿しくなってきて。
 苦笑さえ浮かんできて、
 一時間ほども歩いただろうか、
 前方を浮いていた原稿用紙が、止まって。
 律子はようやく捕まえた、と俯かせていた顔をあげて。
 視界を取り囲んでいた木々の前方が、開けていることに気づいて――
 それを、見た。

 森の木々がそこだけなくなり、大きな池が広がっていた。透き通った水に、背の高い水生植物が生い茂っている。
 その周りを飛び回る――
 数多の、蛍。
 視界を覆いつくさんばかりの光の群れは、鈴虫の澄んだ声とともに、舞い踊る。
 温かな灯火は、暗闇に軌跡を残してゆく。月も届かない漆黒は、幻想的な明かりで浮かび上がる。
 赤、橙、黄――蒼く透き通った池の水と、周囲の木々の緑が合わさり、七色で彩られた絵画が描かれてゆく。
 思わず、息が漏れた。

“――どう?”

 ふと。
 幻覚だろうか。
 原稿用紙を持った、一匹の猫を幻視した。人の形をして、頭から耳が生えた、短髪の猫を。
“きれい、でしょ?”
 蛍の光が、彼女の姿を照らし出したのだろうか。
 淡い金に輝くその猫は、とても優しく微笑んでいた。
「……ええ」
 猫が手を差し出してきて、律子は握り返した。
 確かな感触を持った、柔らかな手だった。

 ――蛍が発光するのは、天敵から身を守るためだ。そのために、短い命を削って、必死に輝いている。
 考えようによっては、滑稽かもしれない。どうしようもなく無様かもしれない。
 だが、懸命に生きようとする彼らの光は――
 とても、美しく。

 律子は猫の手を強く握って。
 二人は地面に腰を下ろして、無言で目の前の光景を見続けた。
 ずっと、ずっと。

* * *

 ……律子が原稿を書き上げたのは、それから一週間後のことだった。

 出版社に原稿を提出した帰り道。
「あら」
「まぁ」
 二人、同時に気づいて同時に声をあげる。
「また、ですか」
「ええ、また……」
 あずさが頬を少し染めながら、苦笑した。照れ隠しか、日傘をくるくると回している。
 強い日差しと彼女の白い肌とのコントラストが、目に眩しかった。
「貴音ちゃんと星を見に行ったら、今度は千早ちゃんが怒っちゃって……」
「……そりゃ、そうでしょうね」
 苦笑する律子。
 が、あずさはそんな律子を見て微笑んだ。
「律子さん、何だか今日は嬉しそうですね」
「え? そうですか?」
「はい。以前お会いしたときは、笑顔がいつもより曇っていたものですから」
 普段ぼーっとしているようで、なかなかどうしてあずさは人のことをよく見ている。
 だからきっと、そうなのだろう。
 今、律子の機嫌が良さそうに見えるのなら、きっと良いのだろう。
「そうかも、しれませんね」
「あら~、なるほど、ふふ」
 相づちを打ったら、何故か合点がいったという表情であずさは頷いた。その目は律子ではなく、あさっての方向を向いている。
「……?」
「完結編、楽しみにしてますね~」
「あ、はい、ありがとうございます……」
 そう言って、あずさはどこぞへ歩き去ってしまった。
 それを追いかけるように、遠くから、「あずささーん!」と千早と貴音の声が聞こえてくる。
 律子は再び苦笑を浮かべながら、そういえばと疑問を思い返した。
「……だから私、完結編が出るなんて言ってないのに」
 まったくよく分からない人だ。いつか、彼女の秘密を暴かなければ。
 風が吹いたのだろうか、肩の部分がそわそわと揺れた。

“つま先立ちの口づけ”――第六巻、完結編はしばらくすれば刊行されるはずだった。
 構成を一から練り直し、寝食も忘れて原稿用紙に向かい、何とか締め切りに間に合わせた。
 担当には渋い顔をされたが、提出した原稿の出来に何とか納得してもらえた。
 おそらく、再び賛否両論が巻き起こるだろう。かなり冒険した結末となった。
 だが、これでいい。
 怖くてしょうがない。自分の作品が否定されるのは、いつだって恐ろしい。
 だけど、後悔はしない。きっと、総てを賭けて書き上げた作品のほうが――そんな生き方のほうが、美しいに決まっているのだから。
 あの夜、学んだことだった。

 律子は家に帰ると、すぐに書斎に向かった。
 休んではいられない。今まで書いていたシリーズが終わることだし、すぐに新作の執筆に取りかからなければ。
 そのまま、しばらく机の前に座り、白紙の原稿用紙と格闘をし続けた。
 一時間ほど経ち、顔を原稿用紙からあげると、机の隅に茶と握り飯が置かれていた。
 ひとりでに。何もしていないのに。
 律子に夢遊病の気がなければ――それはやはり、意志を持った“誰か”によって行われたものなのだろう。
 奇妙なことだ。ありえないことだ。
 けれど、と律子は思う。

 この世には不思議なことなど何もない。
 これもただ、優しい怪異が私を見守ってくれているだけなのだから。

「ありがとう、“いわく”さん」

 どこかで、猫がにゃあと鳴いた。
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